今日は、朝までにすっかり爆弾低気圧が通過してしまい、「台風一過」のようなおだやかな天気だった。
まるで昨日の嵐が嘘みたいだ。
まるで昨日の嵐が嘘みたいだ。
日もさしてあたたかく、日没も遅くなってきて、まるで冬が終わってしまったような感じだ。
室内で色々作業をしていたら、夕方になってしまい、せっかくのあたたかい日差しを堪能できなかった。
残念に思いながら、夕方の空気を吸いに外に出ると、雪をかぶった三原山がとても美しく見えた。
そこで、被災地までふらっと歩いて行ってみた。
(※写真をたくさん撮ったのだが、もう夕方で暗くて光量が足りず、技量もないしスマホカメラだし、残念ながらあまりきれいに撮れなかった。)
(※写真をたくさん撮ったのだが、もう夕方で暗くて光量が足りず、技量もないしスマホカメラだし、残念ながらあまりきれいに撮れなかった。)
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被災地は今もそのまんま |
◇
私が、ほんの運命のいたずらのような形で伊豆大島へやってきて、もう何年にもなるが、今まではこの島の自然を、どうも「美しい」とは感じることができなかった。
どこもかしこも、あまりにも人間の手が加えられていて、 島全体がどうにも「人工的な」感じがしていたからだと思う。
人口も多いし、東京に一番近くて、伊豆諸島の中でも一番便利で発展している島である。
そして、国や東京都や町によって、年がら年中、土木事業がしこたま行われているから、それも当たり前の話である。
私としては本当は、御蔵島のような人口が少なくて交通も不便で辺鄙な(失礼!)島に住みたかったのだが、色々なその時の事情もあって、便利なこの伊豆大島にやってきた。
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半分凍っているおかげで、水が流れる波紋が美しく浮かび上がる |
◇
そんな私が、おそらく今日初めて、三原山を見て「あぁ美しいなぁ」と、心から感じた。
風もなく、どこにも人の気配がなく、静寂に満たされた空間で、山肌は今までにないほどくっきりと白く染まっている。
今までも何度も雪に染まった姿を見たが、今日のそれは今まで見たことがないほど鮮やかで、きれいに白く輝いていた。
ただただ、どこまでも静かで、透き通っていて、泣きそうな気持ちになった。
思えばこれまでずっと、私の眼に映っていたのは、いつもどこか「重く沈んだような」三原山だったのだが、きっと今回のことで、三原山は自然本来の姿を取り戻しているのだと思う。
何か、重荷から解放されたような清々しさ・・・そんな姿を感じた。
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地表を残酷にえぐっていく水の流れさえ美しい |
◇
これだけ大きな被害を出した災害の後で、その地すべり面を白く染めている三原山を見て「美しい」などと言ったら、あるいは被災した人にムッとされるかも知れない。
けれど、私自身が、隣人の死を心から悼む被災者であり、それだからこそ、この山の姿を「美しい」と感じるのだと思う。
「自然は美しい」
この言葉は、単なるキレイゴトではなく、ある面ではとても厳しい現実を表現している。
つまり、自然の美しさというものは、生きてゆくものと死んでゆくものがそれぞれ同じようにいて、互いに命の営みを流れのようにつむいでいく・・・そのことを表しているのだと、私は思う。
それが自然の摂理なのだ。
それが自然の摂理なのだ。
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今まで一番白く染まる三原山。大地はゆるやかな崩壊が続いている |
◇
生ある限り、人は誰しも「死」から逃れることはできず、「死」を否定することはできない。
「死」があるからこそ、世界は美しいのだ。
山が崩れて、多くの人々の命を奪い、洗い流していった。
今もってとても悲しい惨事ではあったが、それは逆らうことのできないひとつの自然の摂理が、私たちの目の前に現れた瞬間だったと思う。
人の死は悲しいことだが、いつか必ず訪れるそれを避けることはできず、ただ受け入れるしかない。
生きることも死ぬことも、自然の中では同じ価値を持っている。
大きな自然の流れの中で、多くの人の命が巻き込まれていった。
・・・だが、今度はそこからまた私たちの新しい世界が始まっていくのだ。
だからこそ、世界は美しい。
自然にとっては、どんなことにも、良いも悪いもない。
ただ摂理に沿って流れ、動いていくだけなのだ。
・・・ただ人間だけが、「死」を認めようとしない。
「死」を否定することで、世界は急激に命を失い、枯れていってしまう。
文明や都市というのは、まさにそういうもので、とてつもないエネルギーを発揮していつも「死」と戦っている。
ありとあらゆる力を動員して、自然のもたらす災厄や「死」を封じ込めようとしているのだ。
それは一時的には成功するのだが、結局はダムを作ってせき止めているようなもので、いつか許容量をオーバーすれば、ダムは決壊して恐るべき大惨事を引き起こす。
悠久のあらゆる文明が繰り返してきたように、伊豆大島で起こったことも、これとまったく同じことだった。
島中をくまなく開発しまくり、防災対策を施し、今までは「危険だから住んではいけない」とされていたようなところにまで宅地開発をして、移住を進めた。
そして、もとは土石流の流路になっているはずの大きな沢にまで、自らの力を過信して、コンクリートの頑丈な橋を何本もかけてしまった。
それが後に、流木ガレキが詰まって土石流があふれ、安全だったはずの住宅地にまで被害を拡大することになった。
「山」というものは、特に火山というものは、雨が降るたび少しずつ削り取られて崩れていくのが、自然本来の姿であろう。
人間は、「死」を受け入れないことで、成長しようとしている。
そうやって、必死に自然を理解しようとしているのだ。
この壮大な文明の冒険が、人間の旅路が、いつ終わるとは知れないけれども、そろそろ・・・「自然を理解する文明」に転換することも、できる頃合いなのではないだろうか。
この伊豆大島の大地は、その文明の転換のせめぎ合いの最前線になっている気がする。
「死」があるからこそ、世界は美しいのだ。
山が崩れて、多くの人々の命を奪い、洗い流していった。
今もってとても悲しい惨事ではあったが、それは逆らうことのできないひとつの自然の摂理が、私たちの目の前に現れた瞬間だったと思う。
人の死は悲しいことだが、いつか必ず訪れるそれを避けることはできず、ただ受け入れるしかない。
生きることも死ぬことも、自然の中では同じ価値を持っている。
大きな自然の流れの中で、多くの人の命が巻き込まれていった。
・・・だが、今度はそこからまた私たちの新しい世界が始まっていくのだ。
だからこそ、世界は美しい。
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自衛隊が真っ平らにならした土地も、自然の力が洗い流して複雑な起伏に |
◇
自然にとっては、どんなことにも、良いも悪いもない。
ただ摂理に沿って流れ、動いていくだけなのだ。
・・・ただ人間だけが、「死」を認めようとしない。
「死」を否定することで、世界は急激に命を失い、枯れていってしまう。
文明や都市というのは、まさにそういうもので、とてつもないエネルギーを発揮していつも「死」と戦っている。
ありとあらゆる力を動員して、自然のもたらす災厄や「死」を封じ込めようとしているのだ。
それは一時的には成功するのだが、結局はダムを作ってせき止めているようなもので、いつか許容量をオーバーすれば、ダムは決壊して恐るべき大惨事を引き起こす。
悠久のあらゆる文明が繰り返してきたように、伊豆大島で起こったことも、これとまったく同じことだった。
島中をくまなく開発しまくり、防災対策を施し、今までは「危険だから住んではいけない」とされていたようなところにまで宅地開発をして、移住を進めた。
そして、もとは土石流の流路になっているはずの大きな沢にまで、自らの力を過信して、コンクリートの頑丈な橋を何本もかけてしまった。
それが後に、流木ガレキが詰まって土石流があふれ、安全だったはずの住宅地にまで被害を拡大することになった。
「山」というものは、特に火山というものは、雨が降るたび少しずつ削り取られて崩れていくのが、自然本来の姿であろう。
それを崩れないように、ありとあらゆるところをコンクリートで固めていく。
そうすると、しばらくの間は山が削れていくのは防げるが、それはただ問題が起こるのを先に延ばしているだけで、本来は少しずつ削れていくべきものが、たまりにたまっていく・・・。
どんなに先延ばしにしようとも、長いスパンの中では、いつかは帳尻を合わせなければならない。
それが自然の摂理だろう。
そして、何十年の歳月の中でいつしか限界を超えてしまい、あたかもダムが決壊するように、大きな崩壊が起きてしまうのではないだろうか。
ちょうど今回のように。
山が削れていく・・というのは、自然の中ではひとつの「死」の姿だが、人間はそれを許さない。
それをどうやっても封じ込めようとする。
どんなにお金や労力をかけてでも、 封じ込めようとする。
だが山は、無い年月がんじがらめになって固められたその体を振りほどいて、何十年もの間たまっていた「砂」を外に吐き出した。
◇
人間が「死」を受け入れようとしないのは、それが怖いからなのか?
そうではない。
人間は、「死」を受け入れないから・・・「死」に抗う存在だから、人間なのだ。
自然に抗うものこそが、人間なのだ。
グノーシスという言葉を知っているだろうか?
「半宇宙的現存在の姿勢」という言葉を知っているだろうか?
遠いギリシャの昔から、あるいは石器時代にマンモスを絶滅させたその頃から、人間は自然に逆らい、人間という存在であるのだ。
そうすると、しばらくの間は山が削れていくのは防げるが、それはただ問題が起こるのを先に延ばしているだけで、本来は少しずつ削れていくべきものが、たまりにたまっていく・・・。
どんなに先延ばしにしようとも、長いスパンの中では、いつかは帳尻を合わせなければならない。
それが自然の摂理だろう。
そして、何十年の歳月の中でいつしか限界を超えてしまい、あたかもダムが決壊するように、大きな崩壊が起きてしまうのではないだろうか。
ちょうど今回のように。
山が削れていく・・というのは、自然の中ではひとつの「死」の姿だが、人間はそれを許さない。
それをどうやっても封じ込めようとする。
どんなにお金や労力をかけてでも、 封じ込めようとする。
だが山は、無い年月がんじがらめになって固められたその体を振りほどいて、何十年もの間たまっていた「砂」を外に吐き出した。
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あの日、ガレキだらけの中で美しい夕陽を見た、その同じ場所で |
人間が「死」を受け入れようとしないのは、それが怖いからなのか?
そうではない。
人間は、「死」を受け入れないから・・・「死」に抗う存在だから、人間なのだ。
自然に抗うものこそが、人間なのだ。
グノーシスという言葉を知っているだろうか?
「半宇宙的現存在の姿勢」という言葉を知っているだろうか?
遠いギリシャの昔から、あるいは石器時代にマンモスを絶滅させたその頃から、人間は自然に逆らい、人間という存在であるのだ。
人間は、「死」を受け入れないことで、成長しようとしている。
そうやって、必死に自然を理解しようとしているのだ。
この壮大な文明の冒険が、人間の旅路が、いつ終わるとは知れないけれども、そろそろ・・・「自然を理解する文明」に転換することも、できる頃合いなのではないだろうか。
この伊豆大島の大地は、その文明の転換のせめぎ合いの最前線になっている気がする。
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